ミルバートン文書(5)
レストレード警部は、話を続けた。
「ところで、数年前にチャールズ・オーガスタ・ミルバートン殺人事件でいろいろとお世話になりましたが、その後、いくつか事実が判明しました。」
ホームズは、思い出したくない事件だと思いながら平静を装った。
「ああ、あの犯人は覆面をした二人の男だったとかいう事件のことか。」
レストレード警部は、ポケットから取り出した香水の小瓶をテーブルにおいて言った。
「ミルバートンが殺された部屋の残り香が気になりまして、調べるうちに、その香りはこれだったのです。ですから、逃走した犯人が男の二人組という事実は変わりませんが、もうひとり女性で重要人物がかかわっていたのではないか思うのです。」
「それで、誰か心あたりがあるのかね。」
「この香水は、イギリスでは手に入らない高級品で、パリのマダム・セーシェルという香水店で売られていることがわかりました。ロンドンでの顧客にメアリ夫人が含まれていたのです。」
「他にも買った客はいたんじゃないか?」
「いいえロンドンでは、わずか3人です。メアリ夫人以外の二人は友人同士で、当時アメリカ旅行中だったことが明らかになっています。」
「メアリ夫人が犯罪に関わっているのか?」
レストレード警部は、ゆっくりと言葉を慎重に選びながら言った。
「あのとき、お話したミルバートン文書の金庫の鍵が、いまだに見つかっていません。可能性として当時の3人の容疑者のうち誰かが持ち去ったのではないかと思われます。」
「その鍵を、だれかが持ち去ったとしたら?」
「今回の事件は、ミルバートン殺人事件と何か関係があるのではないでしょうか?」
ホームズは、それには答えずに窓際にかけより窓の外を確認した後、カーテンを閉めた。
レストレード警部は、話を続けた。
「ところで、数年前にチャールズ・オーガスタ・ミルバートン殺人事件でいろいろとお世話になりましたが、その後、いくつか事実が判明しました。」
ホームズは、思い出したくない事件だと思いながら平静を装った。
「ああ、あの犯人は覆面をした二人の男だったとかいう事件のことか。」
レストレード警部は、ポケットから取り出した香水の小瓶をテーブルにおいて言った。
「ミルバートンが殺された部屋の残り香が気になりまして、調べるうちに、その香りはこれだったのです。ですから、逃走した犯人が男の二人組という事実は変わりませんが、もうひとり女性で重要人物がかかわっていたのではないか思うのです。」
「それで、誰か心あたりがあるのかね。」
「この香水は、イギリスでは手に入らない高級品で、パリのマダム・セーシェルという香水店で売られていることがわかりました。ロンドンでの顧客にメアリ夫人が含まれていたのです。」
「他にも買った客はいたんじゃないか?」
「いいえロンドンでは、わずか3人です。メアリ夫人以外の二人は友人同士で、当時アメリカ旅行中だったことが明らかになっています。」
「メアリ夫人が犯罪に関わっているのか?」
レストレード警部は、ゆっくりと言葉を慎重に選びながら言った。
「あのとき、お話したミルバートン文書の金庫の鍵が、いまだに見つかっていません。可能性として当時の3人の容疑者のうち誰かが持ち去ったのではないかと思われます。」
「その鍵を、だれかが持ち去ったとしたら?」
「今回の事件は、ミルバートン殺人事件と何か関係があるのではないでしょうか?」
ホームズは、それには答えずに窓際にかけより窓の外を確認した後、カーテンを閉めた。
オリエンタルホテル(4)
舞台での劇は、クライマックスを迎えていた。シャーロック役のマイクロフトも白髪が増え、ユダヤの
年老いた商人がすっかり似合っていた。
劇
シャーロック「もう3000デュカットは返していただかなくとも結構です。それよりも最初の契約どおり、胸の肉1ポンドをいただきましょう。」
裁判官 「まあ、待ちたまえシャーロック、君には慈悲という心がないのか」
シャーロック「裁判官様、私は契約書どおりのことを要求しているだけでございます。」
グルーム氏は、舞台を見ながらウェイターからワインをグラスに受けた。
「うわさでは、日本が買い付けて回航させている軍艦は、ロシアの軍艦がぴったり尾行しているらしいが。」
「まあ、その後ろには、イギリスの軍艦もついていますから大丈夫でしょう。」
「いざ開戦となったら、即座に海上戦に突入するわけだな。」
「まあ、その心配はないでしょうが、日本の軍艦が広島の江田島に入港するまでは、何かと理由をつけて尾行してくるでしょうね。」
「アームストロング社は、イギリス政府とも関係が深い。日本が回航を頼んだのもその辺が大きな理由だ。」
「輸送費がえらく高くつきましたね。」
「いずれ、日本の軍艦もできるようになるさ。日本人は、勤勉で努力家だ。」
「どこか、他の国の人々とは違うものを持っていますね。」
「友人として大切にしなければならないな。」
劇
裁判官「どうしても、胸の肉1ポンドを要求するのだな。」
シャーロック「そのとおりでございます。」
裁判官「仕方ない、そのとおりにしてよろしい、ただし……。」
舞台での劇は、クライマックスを迎えていた。シャーロック役のマイクロフトも白髪が増え、ユダヤの
年老いた商人がすっかり似合っていた。
劇
シャーロック「もう3000デュカットは返していただかなくとも結構です。それよりも最初の契約どおり、胸の肉1ポンドをいただきましょう。」
裁判官 「まあ、待ちたまえシャーロック、君には慈悲という心がないのか」
シャーロック「裁判官様、私は契約書どおりのことを要求しているだけでございます。」
グルーム氏は、舞台を見ながらウェイターからワインをグラスに受けた。
「うわさでは、日本が買い付けて回航させている軍艦は、ロシアの軍艦がぴったり尾行しているらしいが。」
「まあ、その後ろには、イギリスの軍艦もついていますから大丈夫でしょう。」
「いざ開戦となったら、即座に海上戦に突入するわけだな。」
「まあ、その心配はないでしょうが、日本の軍艦が広島の江田島に入港するまでは、何かと理由をつけて尾行してくるでしょうね。」
「アームストロング社は、イギリス政府とも関係が深い。日本が回航を頼んだのもその辺が大きな理由だ。」
「輸送費がえらく高くつきましたね。」
「いずれ、日本の軍艦もできるようになるさ。日本人は、勤勉で努力家だ。」
「どこか、他の国の人々とは違うものを持っていますね。」
「友人として大切にしなければならないな。」
劇
裁判官「どうしても、胸の肉1ポンドを要求するのだな。」
シャーロック「そのとおりでございます。」
裁判官「仕方ない、そのとおりにしてよろしい、ただし……。」
ミルバートン文書(5)
D伯爵邸の強盗事件があってから10日ほどたったある日、シャーロック・ホームズは、レストレード警部をベーカー街の自室に迎えていた。
「アームストロング社によると、メアリ夫人は、日本がイタリアの造船所から買い付けた軍艦の回航に際して、重要な手紙の輸送を依頼していたようです。」
「それはまた、厳重な警戒をしている手紙だな。よっぽど重要な手紙だったんだろう。ところであて先は?」
「日本の神戸に住むヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢です。」
ホームズは飲みかけていたコーヒーをこぼしそうになった。突然の意外な展開に驚いたが、レストレード警部に悟られまいと平静を装った。
「どういう関係なんだろう。そんな大事な手紙を送るなんて。」
「いったん盗まれて庭に捨てられてあった手紙の内容によると、どうやら夫人の妹のようです。」
ホームズは再び必死に動揺を隠した。
「よくそこまで調べたね。素晴らしいよ。レストレード君。」
「輸送を請け負った社員は、軍艦がカイロで停泊し、休日で上陸中、何者かに射殺され所持品を奪われました。ところが、メアリ夫人からのヴァイオレット嬢にあてたごく普通の手紙を所持品はすべて死体のそばに捨ててあったのです。」
「犯人が必要なものがなかった?」
「どうやらそのようです。」
「第二に、メアリ夫人が手紙を託したのは、カナダ在住のイギリス軍人、スペンス・マンロー大佐で、イギリス海軍の軍艦でカナダのハリファックスに向かいましたが、上陸後、何者かに拉致されすべての荷物を奪われました。3日後すべての荷物が散乱して、路上に捨てられているのが発見されました。ヴァイオレット嬢にあてた手紙も無事発見されました。どうやら、順番として、カイロでもハリファックスでも狙いのものが見つからなかったので、いよいよD伯爵邸に侵入し、家捜ししたあとさらに、次の行方の情報になるものを物色したようです。」
「そんな厳重な輸送を依頼したのに、何気ない手紙だったということは、おとりだったということかな?」「そのようですが、イギリスから日本に向けて、重要なものを発送するとすれば、東回りと西回りしかありませんが、他にルートがあるのでしょうか。」
「ロシア経由でシベリア鉄道はどうだね。」
「もっとも危険です。ロシアと緊張関係のあるイギリスと日本の間の手紙なんて検閲されるのが当然で、場合によっては没収も考えられます。」
「そうかな、日本には、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ということわざがあるそうだが……。」
D伯爵邸の強盗事件があってから10日ほどたったある日、シャーロック・ホームズは、レストレード警部をベーカー街の自室に迎えていた。
「アームストロング社によると、メアリ夫人は、日本がイタリアの造船所から買い付けた軍艦の回航に際して、重要な手紙の輸送を依頼していたようです。」
「それはまた、厳重な警戒をしている手紙だな。よっぽど重要な手紙だったんだろう。ところであて先は?」
「日本の神戸に住むヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢です。」
ホームズは飲みかけていたコーヒーをこぼしそうになった。突然の意外な展開に驚いたが、レストレード警部に悟られまいと平静を装った。
「どういう関係なんだろう。そんな大事な手紙を送るなんて。」
「いったん盗まれて庭に捨てられてあった手紙の内容によると、どうやら夫人の妹のようです。」
ホームズは再び必死に動揺を隠した。
「よくそこまで調べたね。素晴らしいよ。レストレード君。」
「輸送を請け負った社員は、軍艦がカイロで停泊し、休日で上陸中、何者かに射殺され所持品を奪われました。ところが、メアリ夫人からのヴァイオレット嬢にあてたごく普通の手紙を所持品はすべて死体のそばに捨ててあったのです。」
「犯人が必要なものがなかった?」
「どうやらそのようです。」
「第二に、メアリ夫人が手紙を託したのは、カナダ在住のイギリス軍人、スペンス・マンロー大佐で、イギリス海軍の軍艦でカナダのハリファックスに向かいましたが、上陸後、何者かに拉致されすべての荷物を奪われました。3日後すべての荷物が散乱して、路上に捨てられているのが発見されました。ヴァイオレット嬢にあてた手紙も無事発見されました。どうやら、順番として、カイロでもハリファックスでも狙いのものが見つからなかったので、いよいよD伯爵邸に侵入し、家捜ししたあとさらに、次の行方の情報になるものを物色したようです。」
「そんな厳重な輸送を依頼したのに、何気ない手紙だったということは、おとりだったということかな?」「そのようですが、イギリスから日本に向けて、重要なものを発送するとすれば、東回りと西回りしかありませんが、他にルートがあるのでしょうか。」
「ロシア経由でシベリア鉄道はどうだね。」
「もっとも危険です。ロシアと緊張関係のあるイギリスと日本の間の手紙なんて検閲されるのが当然で、場合によっては没収も考えられます。」
「そうかな、日本には、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ということわざがあるそうだが……。」
オリエンタルホテル(3)
「ところで、六甲山の植林事業にも乗り出されたそうで。」
ハワード氏は、舞台を観劇しながらグルーム氏に言った。
「ああ、ちょっとしたボランティアとレジャーのためさ。今の日本は貧しいが、この間のシナとの戦争、そして、来るべき次の戦争を経て確実に豊かになる。そうなるとレジャーが必要だ。また、いろいろな商談のためにもゴルフ場は必要だ。今は4ホールしかないが、今度は9ホールにするつもりだ。六甲山は荒れ放題で、保水力に問題がある。植林しておかないと我々の北野の住宅街にも水害が及ぶだろう。」
グルーム氏は、葉巻をゆっくりと吹かしながらハワード氏の方を向いた。
「何だか、イギリス人と日本人と両方のお考えをお持ちですね。」
「もちろん私は、イギリス人だが、これだけ長く日本にいると自分の住んでいる周りのことも考えなければならない。日本人と共存していかなければ、インドや中国で味わったような苦い思いをすることになるだろう。
日本と貿易をして利益をあげることも大事だが、一方で技術や文化、教育を提供して、日本人の尊敬も得なければならない。私がバルモーラル学院に寄付しているのもそんなことを考えているからなのだよ。」
劇
シャーロック「そうですね。どうしてもお金を借りたいと言うのなら、無利子で結構です。ただし、ちょっとした冗談ですが、ひとつだけ条件をつけませんか?」
バッサーニオ「どんな条件だね。何でも言ってくれ。」
シャーロック「万が一、借金を返せなかったら。」
バッサーニオ「返せなかったら?」
「造船業をされているハンター氏も、日本人の奥様を娶ったそうですね。」
「彼は私よりももっと日本びいきだ。大阪に造船所を作って海運業の発展にやっきだ。」
「そうですね。ロシアとの戦争で、海上が封鎖されたら日本は一大事ですね。」
「いつまでもヨーロッパから軍艦を輸入している場合ではないよ。ヨーロッパでもドイツとの海軍力競争が激しくなったら日本に軍艦を売る余裕はなくなるだろう。ところで、日本海軍が買い付けてイギリスのアームストロング社に回航を依頼した軍艦はどうなった?」
「今ごろは、アラビアのアデンあたりかと思いますが。」
「ところで、六甲山の植林事業にも乗り出されたそうで。」
ハワード氏は、舞台を観劇しながらグルーム氏に言った。
「ああ、ちょっとしたボランティアとレジャーのためさ。今の日本は貧しいが、この間のシナとの戦争、そして、来るべき次の戦争を経て確実に豊かになる。そうなるとレジャーが必要だ。また、いろいろな商談のためにもゴルフ場は必要だ。今は4ホールしかないが、今度は9ホールにするつもりだ。六甲山は荒れ放題で、保水力に問題がある。植林しておかないと我々の北野の住宅街にも水害が及ぶだろう。」
グルーム氏は、葉巻をゆっくりと吹かしながらハワード氏の方を向いた。
「何だか、イギリス人と日本人と両方のお考えをお持ちですね。」
「もちろん私は、イギリス人だが、これだけ長く日本にいると自分の住んでいる周りのことも考えなければならない。日本人と共存していかなければ、インドや中国で味わったような苦い思いをすることになるだろう。
日本と貿易をして利益をあげることも大事だが、一方で技術や文化、教育を提供して、日本人の尊敬も得なければならない。私がバルモーラル学院に寄付しているのもそんなことを考えているからなのだよ。」
劇
シャーロック「そうですね。どうしてもお金を借りたいと言うのなら、無利子で結構です。ただし、ちょっとした冗談ですが、ひとつだけ条件をつけませんか?」
バッサーニオ「どんな条件だね。何でも言ってくれ。」
シャーロック「万が一、借金を返せなかったら。」
バッサーニオ「返せなかったら?」
「造船業をされているハンター氏も、日本人の奥様を娶ったそうですね。」
「彼は私よりももっと日本びいきだ。大阪に造船所を作って海運業の発展にやっきだ。」
「そうですね。ロシアとの戦争で、海上が封鎖されたら日本は一大事ですね。」
「いつまでもヨーロッパから軍艦を輸入している場合ではないよ。ヨーロッパでもドイツとの海軍力競争が激しくなったら日本に軍艦を売る余裕はなくなるだろう。ところで、日本海軍が買い付けてイギリスのアームストロング社に回航を依頼した軍艦はどうなった?」
「今ごろは、アラビアのアデンあたりかと思いますが。」
ミルバートン文書(5)
応接間に現れたメアリ夫人は、顔面蒼白でやつれているように見え、目はうつろで唇はかすかに開いていた。夫を亡くして久しいのに、まだ黒いジェットを首からさげており夫への深い愛情が色あせていないことが感じられた。
ホームズが挨拶の言葉に迷っているうちに、レストレード警部が言った。
「記憶を無くしているのですよ。メアリ夫人は。」
「記憶を?」
「侵入した犯人を屋敷内で発見したときに首を締められたのですよ。幸い、夫人の悲鳴を聞いて使用人が現場に駆けつけたので殺されずには済みましたが、恐怖とショックで記憶を失ったのです。」
「もちろん犯人の顔も覚えていないだろうね。」
「残念ながらそうです。」
「しかし、記憶がないと、話にならないな。」
ホームズは気まずいあいさつをせずにすんだので内心ほっとしながら夫人の方を向いて挨拶をした。
「はじめまして、探偵のシャーロックホームズと申します。」
「ようこそいらっしゃいました。捜査に必要なことは何でもおっしゃってください。」
メアリ夫人は、か細い声であいさつすると。ホームズとレストレードがかけている向かいの椅子にゆっくりと腰掛けた。
「そう思いまして、本人ではなく周辺から情報を集めました。まず、D伯爵家に届けられた手紙と発信した手紙の全てを調べました。」
「なかなか素早いじゃないか。君の行動力に敬意を表するよ。」
「ありがとうございます。最初にダウニング街郵便局からD伯爵邸の通信履歴を取り寄せました。あまり大きな声では言えないのですが、イギリス国内のある程度の重要人物及びその屋敷への通信の有無は郵便物及び電報も含めて、記録されています。通信の中身はともかく、当該宅に連絡した通信の発信人と当該宅から発信した行き先と日時は全て管理されているのです。
この場合、D伯爵は生前外務省の官僚も勤めたくらいの方ですし、その関係から、ご夫人も諸外国の有力者との交友関係もありましたので、監視の対象になっていました。
屋敷の中にある手紙箱の中身と通信記録とを比べて失われていたのは、日本の神戸からきた手紙が失われていたこと。アームストロング社から夫人に発信した手紙も紛失していました。」
「アームストロング社?」
「あの軍需関係の会社ですよ。」
「何の関係があったんだろう?」
「消印の日付からアームストロング社に内容を確認したところ、どうやら夫人は、手紙の発送を頼んでいたようです。」
横にはうつろな表情のメアリ夫人が、二人の話を聞いていた。
応接間に現れたメアリ夫人は、顔面蒼白でやつれているように見え、目はうつろで唇はかすかに開いていた。夫を亡くして久しいのに、まだ黒いジェットを首からさげており夫への深い愛情が色あせていないことが感じられた。
ホームズが挨拶の言葉に迷っているうちに、レストレード警部が言った。
「記憶を無くしているのですよ。メアリ夫人は。」
「記憶を?」
「侵入した犯人を屋敷内で発見したときに首を締められたのですよ。幸い、夫人の悲鳴を聞いて使用人が現場に駆けつけたので殺されずには済みましたが、恐怖とショックで記憶を失ったのです。」
「もちろん犯人の顔も覚えていないだろうね。」
「残念ながらそうです。」
「しかし、記憶がないと、話にならないな。」
ホームズは気まずいあいさつをせずにすんだので内心ほっとしながら夫人の方を向いて挨拶をした。
「はじめまして、探偵のシャーロックホームズと申します。」
「ようこそいらっしゃいました。捜査に必要なことは何でもおっしゃってください。」
メアリ夫人は、か細い声であいさつすると。ホームズとレストレードがかけている向かいの椅子にゆっくりと腰掛けた。
「そう思いまして、本人ではなく周辺から情報を集めました。まず、D伯爵家に届けられた手紙と発信した手紙の全てを調べました。」
「なかなか素早いじゃないか。君の行動力に敬意を表するよ。」
「ありがとうございます。最初にダウニング街郵便局からD伯爵邸の通信履歴を取り寄せました。あまり大きな声では言えないのですが、イギリス国内のある程度の重要人物及びその屋敷への通信の有無は郵便物及び電報も含めて、記録されています。通信の中身はともかく、当該宅に連絡した通信の発信人と当該宅から発信した行き先と日時は全て管理されているのです。
この場合、D伯爵は生前外務省の官僚も勤めたくらいの方ですし、その関係から、ご夫人も諸外国の有力者との交友関係もありましたので、監視の対象になっていました。
屋敷の中にある手紙箱の中身と通信記録とを比べて失われていたのは、日本の神戸からきた手紙が失われていたこと。アームストロング社から夫人に発信した手紙も紛失していました。」
「アームストロング社?」
「あの軍需関係の会社ですよ。」
「何の関係があったんだろう?」
「消印の日付からアームストロング社に内容を確認したところ、どうやら夫人は、手紙の発送を頼んでいたようです。」
横にはうつろな表情のメアリ夫人が、二人の話を聞いていた。







